パリに滞在していたとき、私は洋服を選ぶ感覚が少し変わっていた。
「これを着て浮かないか」ではなく、「これを着たいか」で服を買っていた。
街に出ると、そこには正解のような服装はなく、それぞれの人が自分の空気をまとって歩いているように見えた。服は“合わせるもの”というより、“その人の延長”だった。
一方で日本に戻ると、その感覚は少しずつ変わっていく。
同じ服でも、どこかで「場に合っているか」「浮かないか」という調整が入る。服は自己表現というより、周囲との距離を整えるための装置になる。
ただ不思議なのは、日本の「おしゃれ」は一様ではないということだ。
特に食の領域になると、まったく違う美意識が働いているように感じる。
日本人は、レストランの空間や料理の盛り付けに対して、非常に繊細な美しさを感じ取る。
余白の使い方、器とのバランス、統一された世界観。そこには「作品としての完成度」を見る視点がある。
この感覚は、むしろヨーロッパ的な美意識に近い。
つまり日本の中では、領域によって「おしゃれの軸」が切り替わっているように見える。
服の領域では
→ 空気を乱さないこと、浮かないことが重要になる
食の領域では
→ 美しく設計された“作品”としての完成度が重視される
同じ「おしゃれ」という言葉で語られていても、実は基準が違う。
この違いはどこから来るのだろうか。
服は日常の中で常に他者の視線を受けるため、「関係性の中でどう見えるか」が強く働く。だから調整的になる。
一方で食は、空間や時間ごと切り取られるため、「世界として完成しているか」という見方が働きやすい。だから作品的になる。
パリでは逆に、食も服ももう少し「その場の出来事」として扱われているように感じた。
完璧に整えられていなくても、その人や空気そのものが中心にある。
こうして見ていくと、日本の美意識は単純に「同調的」と言い切れるものではなく、領域ごとに異なる軸を持っていることがわかる。
そしてそのズレの中にこそ、日常の面白さや違和感があるのかもしれない。
パリで「好きな服を選んでいた自分」と、日本で「場に合わせて服を選ぶ自分」。
その両方を経験したからこそ、私はこの違いを少しだけ外側から眺めることができるようになった。